2020.12.05

完成見学会のご案内

 

住宅担当の花崎です

 

 

12/12(土)~12/20(日)

 

伊豆市大平にて完成見学会を開催します。

 



 



 



 

L型に配置した26帖のLDKはキッチンを中間に置き、

 

ダイニング(食事のスペース)とリビング(くつろぐのスペース)を確保しています。

 



 

奥様ご希望の広いトイレ

 



 



 

ご主人様が製作したアイアンの手摺

 



 

現在、外構工事中。

 

来週末にはお庭とウッドデッキが完成する予定です。

 

完全予約制での開催となりますので、

 

見学をご希望される方は、お気軽に当社までお問合せください。

 
2020.12.01

家づくり勉強会へ

住まい担当の大木です。

 

11/29日(日)恒例となりました「後悔しないための賢い家づくり勉強会」を

 

執り行いました。

 

コロナ禍の為、少人数限定でのイベントとなりましたが、それゆえ内容の濃い

 

イベントになった気がします。

 



 

次回は2021年2月を予定しておりますが住宅を建てる際の予備知識は多いほど

 

必ず役立ちます。

 

弊社では個別勉強会も随時受け付けております。

 

お気軽にお申しつけ下さい。
2020.11.29

埋蔵文化財調査

住まい担当の大木です。

 

来年着工予定のお客様のご計画地が事前調査により埋蔵文化財の試掘調査が必要な

 

エリアでしたので三島市の文化財課の試掘調査が先日行われました。

 

事前に資料を提出して建物詳細を確認の上、試掘場所が選定されます。

 

調査自体は重機を使ってかなり深くまで調査試掘が行われました。

 



 

少しわかりにくいですが試掘断面から過去の水田の高さが推測される地層がでました。

 

埋蔵文化財自体は発掘されませんでしたが遠い過去、人が暮らしていた事が予想される

 

エリアという事は昔から住みやすい場所だったんだなと思いました。
2020.11.27

シリーズ・徒然読書録~『背高泡立草』と『熱源』

あれもこれも担当の千葉です。

 

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益かも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、古川真人著『背高泡立草』(集英社刊)と川越宗一著『熱源』(文芸春秋刊)の2冊です。2020年の年はじめ、第162回の芥川賞受賞作と直木賞受賞作です。

 



 

誰も使わず草に埋もれた納屋の周りを、なぜ自分たちが刈らねばならないのかと母に問う娘の会話から始まるこの物語は、九州(恐らくは長崎県)の小さな島の、島と島に住みついた家族の歴史、過去と現在が交互に、静かで淡々とした文章で語られてゆきます。

鯨の追い込み漁が行われ、若者が各地を廻って島に戻って来た江戸時代。戦争前、大阪へ出たい、満州へ渡りたいと鬱屈や焦燥を溜め込む夫と衝突する妻。戦後、日本から故郷朝鮮へ逃げ帰る船が転覆して島の漁師に救出され居ついた男と子供。

 

時の流れに朽ち果て絶えてゆくものと、それを当たり前のように受け継いでゆくもの。

『いつまでも続くことの不可能と、現に至るところに見出される、流れていった時間の行きつく先の景色・・・もっとも時の流れを示す眺めこそ、誰も来る者がなくなり、草の中に埋もれた納屋だった。』

いつか自分たちも来なくなれば朽ち果ててしまうものたち。もう絶えてしまった『吉川家』のために当たり前のように手入れに来る母。『毛ほどの疑問もなく口にした言葉は、そうした時間の経過をわずかばかりも感じさせないものがあるように奈美は思った。そしてそれは理屈によるものではない。』

 

凡庸な私にはあまりピンとこない小説でした。

 

 

もう一冊は直木賞受賞作の『熱源』。



 

ロシアと日本に翻弄される樺太アイヌの闘いと冒険を描いた小説で、単に日露の間で翻弄される少数民族の悲哀を描くのではなく、文明化によって民族や文化のアイデンティティの危機に晒される樺太アイヌを通して、『滅びてよい文化などない。支配されるべき民族などいない。』との強烈なメッセージが伝わって来ます。

 

1855年 日露和親条約 択捉島まで日本、得撫島からはロシアと国境決定。樺太は定まらず『共同領有』
1875年 千島樺太交換条約 樺太はロシア領、千島全島は日本領

1904年 日露戦争 南樺太を日本に割譲、ソ連邦成立の混乱に乗じ数年間日本が北樺太まで占領
1945年 第二次大戦後 樺太全域、千島全島をソ連が占領、現在に至る

 

千島樺太交換条約でロシア領となった樺太に残ったアイヌの方が多かったが、希望するアイヌは北海道へ移住。日本文化を押し付けられることになります。

『文明が、樺太のアイヌたちをアイヌたらしめていたものを削ぎ落していくように思えた。自分たちはなんの特徴もないつるりとした文明人になるべきなのだろうか・・・日本に呑まれるような立場』

『幻想だ・・・文明ってのに和人は追い立てられている。その和人に、俺たち樺太のアイヌは追い立てられている。』

『彼ら未開人は、我ら(和人・日本人)によって強化善導され、改良されるべきなのです』

 

そして日露戦争後に日本領となった樺太の開拓のため主人公ヤヨマネクフたちは強制的に再び樺太へと渡ることになります。樺太にはアイヌの他にも、オロッコやギリヤーク(ニグブン)などの原住民がおり、ロシア人の進出で森が焼かれ漁場も奪われ貨幣経済に巻き込まれ、文明の波に押し流されて行く運命を辿っていました。

『文明的な産業と文明を知る教育がギリヤークに必要と思えた。だがその二つを得たとき、そこには誰が残るのだろう。極寒の風土に研ぎ澄まされた滑らかな風貌だけが先祖を思わせる、ロシア帝国の勤勉な市民。それは果たして誰なのだろう』

 

また、樺太はロシア・ソ連の流刑地とされており、抑圧されたリトアニア人やポーランド人流刑者など、国を奪われた民族の苦悩が重層的に描かれています。

『私が生まれ育った国はロシア帝国に呑み込まれ、ロシア語以外は禁じられています。国の盛衰はともかく言葉を奪われた私たちはいつか、自分たちが誰であったかということすら忘れてしまうかもしれません。そうなってからでは遅いのです。』

 

日本人の父とアイヌの母を持ち樺太で生まれ北海道で育ち樺太に戻った太郎治。樺太アイヌとして生まれ北海道で育ち教育を受けて樺太に戻ったヤヨマネクフとシシトラカ。国が地図から消滅しサハリンに流刑となり樺太アイヌと結婚して子をなしたポーランド人のピウツスキ。故郷はどこなのか。自分は誰なのか。

『アイヌを滅ぼす力があるのなら、その正体は生存の競争や外部からの攻撃ではない。アイヌのままであってはいけないという観念だ。いずれ、その観念に取り込まれたアイヌが自らの出自を恥じ、疎み始める日が来るかもしれない。学校がアイヌを滅ぼすのかもしれない』

『いつか見た故郷、小さな木幣、たなびいた煙。悲しい経験ばかりだが、それらに突き動かされてここまで生きて来た。親友に今、なお生きよと諭された。生きるための熱の源は、人だ。人によって生じ、遺され、継がれて行くそれが熱だ。自分の生はまだまだ止まらない。熱が、まだ絶えていないのだから。灼けるような感覚が体に広がる。沸騰するような涙がこぼれる。熱い。確かにそう感じた。』

 

1945年8月9日 ソ連、突然の満州侵攻、樺太でも国境で越境、11日から戦闘本格化

『どうして誰も、この島を放っておけないのだ。人が住んでいる。ただそれだけではどうしていけないのだ。どうしてこんなに嵐が吹き荒れるのか。』

『戦争も何もかも、生きてる人間が始めたんだ。生きてる人間が気張らなきゃ、終わんないだろ。あたしもあんたも、まだ生きてる。なら、できることがある。黙って見てろ。あたしたちは滅びない。生きようと思う限り、滅びないんだ。』

『また会えるかは、わからない』『あたしだって、四十年前にあんたに会ってるなんて思わなかったよ』『「次」とか「また」とか「まさか」ってのは、生きてる限り、あるもんさ』

 

とても多くの要素が盛り込まれたために少し消化不良の印象もありますが、それを補ってなお余りあるほどに『熱い』小説でした。

『私たちは・・・その摂理(弱肉強食)と戦います。・・・弱きは食われる。競争のみが生存の手段である。そのような摂理こそが人を滅ぼすのです。・・・人の世界の摂理であれば、人が変えられる。人智を超えた先の摂理なら、文明が我らの手をそこまで伸ばしてくれるでしょう。私は、人には終わりも滅びもないと考えます。だが終わらさねばならぬことがある』

『アイヌって言葉は、人って意味なんですよ。強いも弱いも、優れるも劣るもない。生まれたから、生きて行くのだ。すべてを引き受け、あるいは補い合って。生まれたのだから、生きていいはずだ。・・・もし祈りの言葉が忘れられても、言葉を奪われても、自分が誰かということさえ知っていれば、そこに人(アイヌ)は生きている。それが摂理であってほしいと願った。』

 

 
2020.11.18

秋のトリコロール

あれもこれも担当の千葉です。

 

 

社内の廊下や階段室に貼られたポスターです。



 

いよいよ気温も下がり、秋も深まりつつありますが、明日明後日は西日本を中心に気温が上がり、ここ三島でも夏日の予報ですし、山陰地方では観測以来最も遅い夏日となると言われています。霜月は旧暦の呼び名とは言いながら、霜が降りるのはまだまだ先のことになりそうです。

 

わが家の霜月前半の草花たちを見てみると、、、



千両の朱は鮮やかに。

 



南天の実もだいぶ赤くなりましたが、

 



万両の実の紅はまだまだこれからのようです。

 



薄いピンクの侘助が開花。

 



同じツバキ科の山茶花も庭に華やかさを添えてくれます。

 



紅葉も部分的に進み、柿の葉は散り、楓にも彩り鮮やかなものが増えてきました。



 



 

今年のわが家のトリコロール(松の緑、満天星の赤、銀杏の黄)には鮮やかさが足りません。



 

そこで、先日訪れた富士宮のトリコロールを見事な富士山の雄姿とともにお届けします。



 



 



 

冬を前に、寒暖の差が厳しくなるようです。どうぞご自愛くださいませ。

 

 

 
2020.11.08

コロナで観光地も様変わり‼

最近ひざの痛みが出始め、加齢をますます感じている櫻井です。

数か月前のとある観光地の光景です。

 

*注意書きです・・・

 



 

 

*拝観も規制が・・・

 



 

 

*御朱印も規制が・・・

 



 

 

手水場もこんな状況です・・・

 



 



 

 

*想いが満載ですねえ・・・

 



 

地蔵もマスクです・・・

 



 

 

コロナとの共生が当たり前になりつつある昨今、終焉はあるのでしょうか?
2020.10.31

西湖でソロキャンプ

 

花崎です

 

 

西湖自由キャンプ場でソロキャンプをしてきました。

 



 



 

すぐ目の前に湖があり、すごく開放的です。

 



 

夕食は焼き鳥

 



 

夕食後は焚火を楽しみ

 



 

綺麗な月を眺めて就寝しました。

 



 

翌朝は日の出前に起床して、

 



 

日の出の太陽の暖かさを体に感じました。

 



 

朝食のホットサンドは

 

ちょっと油断したら、焦げちゃいました。

 



 

帰りは富士山を眺めながら、ゆっくりと帰宅しました。

 
2020.10.30

家族を守ってきた門扉の第二の人生

 

すまい担当の大木です。

 

現在お引渡し間近の御宅の話を掲載させて頂きます。

 

このお宅にの入り口には何代も前に建てられたケヤキ製の立派な門がありました。

 



 

ただ現在の車社会に対しては、どうしても間口が

 

せまく車で通行する際には気を使いながらの通行となっておりましたので

 

今回のお住まいの建替えに際して、解体する事となりました。

 

いままで家族を守ってきた門ですので近所のお寺での再利用も検討して

 

もらいましたが畳や建具の再利用と同様でサイズが合わないため移転は断念せざるを

 

えない状況となりました。

 

しかしこの門は姿を変えてダイニングテーブルとして

 

引き続き家族の皆さんを見守る事となります。

 

まずは銘木を取り扱っている工場にて門扉の再加工を行いました。

 

昔の職人さんの仕事ですので金物は使用せず、組み上げられていました。

 

↓ 解体中の様子です。

 



 

↓解体後の様子です。門を囲っていた框も回収できました。

框はテーブルの脚に生まれ変わります。

 



 

そして数週間後 ダイニングテーブルとして生まれ変わりました。

 

 



 

本来のケヤキの色がとても綺麗です。

 

これからも形をかえて引き続き家族のそばで家族を見守る事となります。

 

なんか…良かったです。

 

思い入れのある古材の再利用をお考えの方、是非お問合せ下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
2020.10.23

スライド丁番の調整方法

修理のことなら鈴木のゆう企画の鈴木です。

今回で4回目の投稿となります。

 

今回は、スライド丁番の調整方法についてご紹介いたします。

スライド丁番は、キッチンの扉・食器棚の扉・物入の扉等で使われているので、

一度は目にしたことがあるかと思います。(下の写真を参照ください。)



 

 

スライド丁番にはいくつかのネジがあり、各部のネジにて調整を行います。



 

メーカーによって異なる場合がございますが、

①は扉の左右の調整

②は扉の上下の調整及び固定

③は扉の前後の調整及び固定

の役割がございます。

 

 

①は扉が当たってしまう場合や扉が左右に傾ている場合などに調整を行います。

多くの扉には上下2個ついており(扉大きさにより3個以上の場合もあります)、

扉の上側が当たっている場合は上の丁番の①のネジを緩める(左回り)と扉が

丁番側に動きますので扉が当たらなくなるところまで回してください。

扉の下側が当たっている場合は下の丁番を調整してください。

上下が当たる場合は上下の丁番を調整してください。

また、上下のバランスが悪い場合は、上下の①のネジを締め(右回り)たり、緩め(左回り)たりして調整を行います。

物によっては、③のネジを緩め(左回り)ないと調整できない場合がございます。

 

②は扉全体が上下に当たる場合や左右の扉の高さが違う場合などに調整を行います。

調整方法は上下の丁番の②のネジを緩め(左回り)、扉の調整を行い②のネジを締め(右回り)て固定します。

物によっては、②を回すだけで上下する物や②のネジのない物もございます。

 

③は扉が出っ張ってきた場合などに調整を行います。

調整方法は出っ張ってきているところの丁番の③のネジを緩め(左回り)、扉の調整を行い②のネジを締め(右回り)て固定をします。

また、扉がガタついている場合は、このネジが緩んでいることが多いので、③のネジを締めて固定してください。

 

最初は、なかなか上手く調整できないかもしれませんが、失敗を恐れずに挑戦してみてください。

どうしても、直らなくなってしまった場合は、私を呼んでください。
2020.10.16

シリーズ・徒然読書録~山根京子著『わさびの日本史』

あれもこれも担当の千葉です。

 

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益であるかも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、山根京子著『わさびの日本史』(文一総合出版)です。わさびの原種が、人間によって特別な植物として『栽培ワサビ』となる経緯を、日本全国(時に中国本土の山奥まで)300箇所を訪ね歩き、DNA分析と史料に刻まれた記録を検証することで解明しようと試みた、簡易でありながらかなりの力作です。図書館の新刊本コーナーで見掛け、静岡県伊豆の住人としては見過ごす訳にいかず手に取ってみました。

 



 

本書の内容を掻い摘んでみましょう。

 

アブラナ科ワサビ族は約30種、大半が中国に自生しています。DNA分析によれば、ワサビは人類が日本列島に住みつく以前に渡来して、氷河期を生き延びたもの。凡そ100万年前、複数のワサビが大陸のワサビ族から分岐して渡来したと考えられます。渡来したワサビは日本海側を中心に分布し、多雪地帯に適応して進化したと考えられています。

中国雲南省に自生するシュンサイと呼ばれるワサビは、日本のワサビと見た目はソックリですが、全く辛みがなく、ゲノム分析でも異種と判明。日本のワサビだけが辛いとのこと。

からし(薩摩、三重)、しゃんしょのき(島根)、せんの(秋田)、ひの(青森、秋田)ふしべ(秋田)、ふすべ(秋田)、わさびな(京都)。ワサビの呼び名の方言は極端に少ない。これは山椒や生姜にも共通し、香辛料は用途が限定され多様性が生まれ難いからではないか。

ワサビの最も古い記述は飛鳥時代(660年前後、天武天皇前後)の木簡や大宝律令(701年)、播磨の国風土記(710年頃)に、恐らく薬草として『委佐俾』『薑(はじかみ)』の名で登場。本草和名(917年)で初めて『山葵』の字が登場します。産地(自生採取)として、若狭、越前、丹後、但馬、因幡、飛騨(延喜式927年)が記されています。

食用(香辛料)としての初めての記述は倭名類聚集(10,11世紀、平安中期)。

しかし古事記(712年)、日本書紀(720年)、万葉集(790年頃)から古今和歌集(910年頃)までの多くの史料には記述がありません。これは、恐らく自生している山麓の住民にしか馴染みのないものであったからだと考えられます。

この後には、厨事類記(平安末期~鎌倉末期)に料理での使用法として初めての記述(汁ものの実としてが主流)が、鈴鹿家記(14世紀)に初めて刺身と並んでのワサビの記述、四条流庖丁書(15世紀)に『わさび酢』の記述があります。日本食の料理法は江戸時代に急速に変化しますが、食材は殆どが室町時代に出揃っていることを考えると、鎌倉時代後期から南北朝時代に、刺身とワサビの食文化が始まったと考えられます。

しかし、『刺身とわさび醤油』の浸透は、江戸時代中期(19世紀初頭)の醤油の低価格化による庶民への浸透まで待たねばなりませんでした。それまでは、料理物語(1643年)、料理献立集(1672年)などによれば、香辛料としては山椒、生姜が主流で、刺身にはワサビよりもショウガが一般的。また、ワサビは『わさび酢』として、生魚よりも、貝類や鳥類に(生魚も赤身ではなく白身魚に)合わせて用いられていました。ようやく料理分類伊呂波包丁(1733年)になると、すりおろしワサビが一般化し、香辛料の中でもワサビが躍進をすることになります。そして19世紀初頭、醤油の低価格化による庶民への浸透、それまで下魚とされてきたマグロの消費拡大、伊豆でのワサビ栽培による供給増加が重なり合い、江戸でのワサビ醤油文化が定着することになったのです。

 



(江川坦庵が書いたといわれる山葵の絵、『山葵からくばあやまるに』)

 

それではワサビはいつどこで人の手によって『栽培』されるようになったのか。そしてなぜ伊豆半島で江戸の消費を支えるような大規模な『栽培』がなされるようになったのか。

著者は、山葵栽培の起源地としては静岡県中部の有東木が有力としています。DNA分析では、有東木の栽培種『だるま系』の野生種祖先種は山梨県、群馬県、長野県にまで絞り込めました。有東木の集落は武田家の一族が入植していたこと、静岡県側には野生種がないことから、恐らく山梨県側から自生種が持ち込まれたのではないかと推測しています。

そして徳川家康との運命的な出会い。大御所として駿府入城後に有東木の山葵を知った家康が、家紋の葵と葉がよく似た山葵を珍重、有東木から門外不出としたとされています。朝鮮通信使の駿府饗応献立にワサビの記録があり、その接待人数からしても自生ではなく栽培されていたことが裏付けられるといいます。そして家康の死後には前述の如く、史料にワサビの記述が頻繁に登場することになります。

そして伊豆湯ヶ島の板垣勘四郎が1744年に有東木に派遣され、しいたけ栽培を教え、その代わりにワサビ栽培を教わり、伊豆に持ち帰ったと言われています。1801年には幕府の許可も下りてはいますが、当初家康公によって門外不出とされた有東木のワサビが持ち出せたのには、有東木の娘との恋物語など諸説がありますが、著者は有東木の望月家も湯ヶ島の板垣家も共に旧武田家の流れであることにヒントがあると見ています。1805年には既に175軒の栽培農家があったとの記述もあり、江戸での一大消費ブームを支えることとなります。

伊豆にはワサビ栽培に適した要素が沢山あります。日本有数の降水量を誇る天城の豊富な水、その水を涵養する地質環境(水はけのよい噴火堆積物)、天領のため留木制度(許可ない伐採を禁止)による保護があったと著者は記しています。

筏場のわさび田で山葵の栽培をしていた亡き友人に聞いた話ですが、山葵は直射日光に弱く、南斜面は向いていない。狩野川が太平洋側では唯一の北に流れる一級河川であるように、天城は北斜面でかつ豊富な流水に恵まれているのでワサビ栽培には適しているのだと。山葵狩りをしながら夭折した友人に教えてもらった懐かしい思い出です。

中伊豆大見にも享保年間(1716~1736年)にわさび田流出、宝暦年間(1751~1763年)には特産品としての出荷の記録があります(地蔵堂最寄り)。これに関して著者は、DNA的には有東木のだるま系であり、大規模な栽培としては、大見口での栽培は狩野口での栽培より遅れる、と書いていますが、ここはいまいちスッキリしていません。が、どちらにせよ背中合わせの地域で、伊豆市であることに変わりはありませんね。

 

江戸など関東では一世を風靡したワサビ醤油文化ですが、更に、関東大震災と戦後(1947年)の飲食営業緊急措置令によって握りずしが全国に広まったのに合わせてワサビも広まることとなります。そして全国津々浦々にワサビが定着するのにとても大きな役割を果たしたのが、粉わさび(1939年代~)と練りわさび(1970年代~)の開発でした。大規模な栽培といっても、もともと栽培が難しく、収穫までに年数が掛かり、温度乾燥に弱く、揮発性の辛味のためにその場でその都度すり下ろす必要がある生わさびでは賄えない量が供給できることとなった訳です。

日本で現在栽培されているワサビの品種は主に3つ。だるま系、島根3号系、真妻系(私が伊豆産でよく手にするのはこの真妻種です)。ところが北陸、白山麓のワサビはどれにも当てはまらないもので、江戸時代には塗り薬として少量栽培されていました。もちワサビと言われるように、すり下ろすと粘りが強く、香りが突出して強いものもあるそうです。

韓国の香辛料はトウガラシ、なぜ日本はワサビなのか。著者の分析はこうです。韓国が肉食文化で日本が魚食文化だからではないか。日本で肉の消費量が初めて上回ったのは2006年で、それまで長い間水産物の消費量の方が多かった。また、川魚のように香辛料が臭みを消すために使われることもあるが、日本の香辛料は臭みを消すよりも、食欲を刺激し増進する役割が多く、素材の味を活かす調理法が多いからだと。

 

2013年に日本食が世界文化遺産に、2018年には静岡水わさびの伝統栽培が世界農業遺産に認定されており、世界に対して改めてワサビが発信されました。しかし最後に著者はワサビの未来について懸念を表しています。

自生種は鹿などの食害や開発などで減る一方です。栽培種についても、日本人の肉食化傾向や若い人たちのワサビ体験の減少傾向が挙げられています。今は握り寿司も回転ずし。回転ずしでは子供向けに『サビ抜き』になっています。

ワサビの嗜好は、美味しいと感じた体験によってもたらされます。ぜひワサビの食体験を増やしましょう!